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「ありふれた不幸」を乗り越えるには

 


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 学生の頃は大学のすぐ近くのレンタルビデオ屋に足繫く通って、週に3~4本の旧作映画を観たり、年に数回は映画館に足を運んだりしていました。それほど映画が好きなのですが、働き始めてからは、映画を観るのはサブスクで月に1本程度。映画館に行くことはめっきり減っていました。今年の7月に買い物に出かけたついでに、久しぶりに映画館に行こうと思い立ち、行き当たりばったりで、ちょうど良い時間に上映されていた『国宝』を観てきました。


 映画を観終わって充実した気持ちで駐車場に向かうと事件は起きていました。私の車の右の後輪がつぶれていたのです。思わず「は?」と声が漏れて、近づいてタイヤを確認するとタイヤに釘が刺さっていました。はじめは悪質な悪戯か?と被害的な考えが浮かびました。スマホで「タイヤ 釘 パンク」と調べると、釘を踏んでパンクをした人がYahoo!知恵袋で質問している内容が検索結果に出てきました。どうやら道に落ちている釘を踏むことはわりとあるようです。しかし、せっかくの充実した気分が台無しになってしまったので、やり場のない怒りから、生まれて初めて釘を憎みました。藁人形に「釘」と書いて釘で打ち付けたくなるくらいに。


 釘を憎んでもどうにもならない。そう思ってすぐ近くのガソリンスタンドに行きました。「こんにちは」と笑顔で挨拶をしてくれたスタンドのお兄さんに事情を説明すると、「大変でしたね。最近釘が刺さっちゃって、っていう人結構多いんですよ。一昨日もこれ何とかならない?って来たくらいで。パンク修理ならすぐにできるので大丈夫ですよ!」と言ってパンク修理をしてくれました。


 私がクーラーの効いた待合で待っていると、数分後には汗だくになったお兄さんが「ありましたよ!これ!」とニコニコ笑って釘を高く掲げてやってきました。それから「他のタイヤも空気が減っていたのでいっぱいまで入れておきましたよ!」と言われて、釘が刺さったことでつぶれてしまった私の心にも空気が入ったようでした。


 精神分析の大家フロイトは、「特別な悲しみ」を「ありふれた不幸」に変えること、そしてその「ありふれた不幸」を「乗り越えられるようになること」が心の回復だ、というようなことを言っています(大学院生の時にフロイトの本を少しだけ読んだのですが、文言は忘れてしまいました。確かこんな感じのニュアンスだったかと思います。間違っていたらすみません)。


 タイヤのパンクは誰にでも起こる「ありふれた不幸」でしたが、映画好きの私にとって、映画を観た後の充実感が台無しになったのは、「特別な悲しみ」として感じられていたのかもしれません(少し大げさな表現かもしれませんが、釘を呪いたくなるほどでしたからね)。「特別な悲しみ」は一人で抱え続けていると必要以上に自分を責めてしまったり、あるいは誰かのせいにしてその人を傷つけてしまったりすることがありますし、釘を呪いたくなるほど人をおかしくさせてしまいます。「特別な悲しみ」を「ありふれた不幸」に変えるのは、ものの見方・認識の問題ですが、「よくある出来事だ」という客観的な情報だけでは不十分な場合があります。そんな時には、スタンドのお兄さんが汗を流しながらパンクの修理をしてくれたり、にこやかに対応してくれたりしたように、誰かからのケアが必要なのではないかと思います。誰かからのケアは「特別な悲しみ」を「ありふれた不幸」として受け止めることを手助けし、「ありふれた不幸」を「乗り越えられるようになる」ための力になります。


 さて、パンク修理のその後です。パンク修理はあくまで応急処置なので、お兄さんからタイヤ交換を勧められて一先ず見積もりを出してもらいました。見積書を家に帰ってから眺めて、金額が少し高いなと感じたので後日別のところにお願いしました。パンク修理をしてくれたお兄さんには少し悪い気もしましたが、これも急な出費という「ありふれた不幸」を乗り越えるためだと自分に言い聞かせました。

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