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「自立」について思うこと


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 私はほだかの里で働き始める以前から、自立援助ホームというところで働いています。自立援助ホームという名前に聞き馴染みがない方は多いのではないかと思います。端的に言うと、何らかの事情があって家庭で生活することができない、義務教育を終えた15歳以上の人が自立を目指して生活する場所、それが自立援助ホームです。今回のブログでは、自立援助ホームで働きながら私が「自立」について思うこと少し言葉にしてみたいと思います。



 皆さんは自立という言葉を聞いてどんなことをイメージするでしょうか。身辺自立、経済的自立、心理的自立。自立がつく言葉は色々あります。もう少し具体的な事柄をイメージしてみるとどうでしょうか。


 自分で着替えができるようになること。

 朝に自分で起きられるようになること。

 食事の用意をすること。

 食べた後の食器を片づけられること。

 洗濯をすること。

 部屋を清潔に保つこと。

 働いてお金を稼ぐこと。

 規則正しいリズムで生活すること・・・。


 こうした具体的なイメージは「自立の物差し」と言えるかもしれません。私は日常の細々とした場面で出てくるこの「自立の物差し」を厄介に感じます。「自立の物差し」を使って子どもを見ていると、私の心の中に「これでいいのか」、「こんなことで社会でやっていけるのか」という言葉が浮かんで小言を言いたくなるからです。それは皆さんがお子さんを見ている時にも感じることかもしれません。


 この「自立の物差し」の根本には「何でも自分でできるようになること」という考え方があるように思います。「何でも自分でできるように」なれば自立しているといえるのでしょうか。私はそこに疑問を感じています。自立援助ホームにやってくる人たちを見ていると、家庭の事情で「何でも自分でできるようになること」を強いられてきて、「できない自分」を責めている人が多いように思うからです。


 自立のお手伝いをするのが自立援助ホームの仕事なのですが、そもそも自立ってどういうことなのだろうか、と私は入所者やスタッフの皆さんと話しています。その時によく引き合いに出すのが小児科医の熊谷晋一郎さんの言葉です。

 熊谷さんは自立とは「依存先をたくさん持つこと」そして「支配されないこと」とおっしゃっています。依存先が少ないと依存先の如何によって自分という存在が脅かされてしまうからです。

 「何でも自分でできるようになること」は熊谷さんの言葉に合わせて考えてみると、「自分依存」と言えるかもしれません。私は、ほどよい「自分依存」は必要だと思います。しかし、それが過剰になると「何でも自分でやらなければ」、「こんなことで人に迷惑をかけてはいけない」と考えて、何でも自分で背負い込んでしまいます。そして自分でできなかった時に自分を責めてしまい、自信を無くし、失敗を恐れて避け、だんだんと人との関りから遠のいていきます。それは自立ではなく「孤立」になってしまう可能性があります。



 「自立の物差し」で子どもを見る時、それは木を見る時に枝や葉や花や実のほうに注目することと似ています。枝がどのくらい伸びたのか、葉は茂っているか、花が綺麗に咲いているか、たくさん実がなっているか。「どれくらい自分でできたか」は人の目を引き付けます。しかし、大きくて立派な木ほど土の中にしっかりとたくさんの根を伸ばしているものです。

 子どもの自立を促すということは、「どれくらい自分でできたか」という枝葉のことは一旦横に置いて、まず必要なのは、子どもが根を伸ばすのを手助けすることではないかと考えています。「自分依存」よりも前に「安心できる他者への依存」の体験です。それは日常の中の些細なことの中に隠れていると思います。


 例えば、

 「いってらっしゃい」と笑顔で子どもを見送ること。

 「おかえりなさい」と帰ってきた子どもを笑顔で出迎えること。

 子どもが「こんなことがあったよ」と話すのを頷きながら聴くこと。

 掃除や洗濯をして子どもが心地よく過ごせる空間を保つこと。

 家族でおいしくご飯を食べること。

 たまに喧嘩はするけれど、その後にちゃんと仲直りすること

 子どもが風邪を引いたら看病し、必要があれば病院に連れていくこと・・・。


 こうした「当たり前」だけど大切な「日常」の積み重ねをしていくなかで、子どもは家庭の中に深く根差していき、自立の土台を築いていくのではないかと思います。

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