高校2年生から3年生になる春休みにオートバイ(自動二輪)の免許を取った。当時はまだ17才、自分にとって生まれて初めて資格を得たことが嬉しくて誇らしかったことを今でもよく覚えている。一人前の人間にはもちろん程遠いが、少し大人に近づいた気持ちだった。
その頃、自動二輪の運転免許はまだ小型、中型、大型などの区分がなく、実地試験は125ccのオートバイを使って実施された。(翌年から区分が設けられ、自動二輪の実地試験も400ccのオートバイが使われるようになる。)
自動二輪の免許をとるために、兄の友達からオートバイを借りて、神社の境内や農道などで何度も練習をした。そんな行為はもちろん違反だが、その頃は誰からも咎められず、当時、免許取得の方法としては一般的だったと思う。ある程度乗りこなせるようになってから、一度だけ自動車教習所で実地試験のための講習を受けた。現在では、高校生の自動二輪免許取得は禁じられているというのが大半だが、当時はその辺りもゆるかった。
自動二輪免許の試験を受けるため、春休みに同じクラスの女子生徒と一緒に平針の運転免許試験場に出かけた。彼女は体操部で運動神経も良かったが、結果は自分だけが合格、彼女も2回目の再試験で無事に合格した。
その前の年(2年生)の夏休みは叔父さんが経営する鋳物工場で1か月間働いた。鋳物を旋盤などの機械で加工する仕事を、暑い工場の中で半袖のシャツだけの姿で黙々と働いた。白シャツは、鋳物を削った粉が染みついて、洗濯しても黄色に変色していった。
アルバイトをしたのは、冬休みにスキーに出かけるための費用を作り出すため。その頃は、親から小遣いがもらえるような家計状況ではないとわかっていた。
自動二輪の免許を取っても、当然のことながらオートバイを買うお金はなく、免許を使うこともほとんどなかった。友達のバイクを借りたり、友達の運転するオートバイの後ろに乗っていることがほとんどだった。
高校3年生の夏休み、夏山合宿に出かける準備を終えて、自宅まで送ってもらうために友達の運転するオートバイの後部座席にいた時、トラックに追突して右足大腿部を強打する。骨折は免れたものの、強度の打撲傷でほとんど歩ることができず、もちろん合宿には不参加で貴重な高3の夏休みをほとんど自宅で過ごすはめになってしまった。
やっとオートバイが買えたのは就職した年、19才になった頃だった。職場の先輩から中古のオートバイ「ホンダCB250」を格安で譲ってもらった。当時、大学の夜間部に通っていて、自宅から職場、職場から大学、そして自宅までの足として乗り回していた。
中古のオートバイでも乗り心地は良く、毎日の通勤、通学時に快適なバイクツーリングを楽しんでいた。
そんな時、大学からの帰り道で事件は起きた。オートバイで信号待ちをしていた時、ふと後ろを振り返ると、荷台に括り付けていた荷物がそっくり消えてなくなっていた。荷物の中にはもちろん財布も、銀行からおろしたばかりのお金も。来た道をゆっくり戻りながら、落とした荷物を探したが、結局は見つからなかった。
大学を卒業してから、週末には山登りに出かけることが多くなる。オートバイに乗ることも減って、結婚した頃には通勤用の小型オートバイ「ダックスホンダST70」に変わった。小さな自動二輪の「ダックス」にクライミング用のヘルメットをかぶって二人で相乗りした。貧しかったけれど幸せな頃だった。少しして、乗り物はオートバイから自動車に変わった。
あれから長い年月が過ぎ、子育て期にはオートバイに乗ることもほとんどなくなってしまった。子育てが一段落した頃にスキーで左足を骨折、そのリハビリを兼ねて新たにマウンテンバイクを買った。MTBは「スペシャライズド・スタンプジャンパーM4」、近くのトレイルを毎週のようにツーリングした。マウンテンバイクは新しい相棒となった。
今でもマウンテンバイクで坂道を快走する時、若い頃にオートバイで走ったことを思い出す。そして、風を切る心地よい感触を身体と心で懐かしんでいる。
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