3人目にしてやっと生まれた女の子(娘)も既に二児の母となり、子育てに奮闘する毎日を送っている。娘は、30才を過ぎてから結婚、親としては孫の誕生を密かに待ち望んでいたが、それだけは口に出さないようにとずっと心にしまっておいた。結婚後数年たって妊娠したと知らせてくれた時、嬉しさと同時に不妊治療で苦しんでいたことを初めて知る。娘はいつの間にか大人になり、親から巣立っていったことを改めて実感した。
娘が生まれた頃は、区役所の児童係(今の民生子ども係)で知的障がい関係の仕事を担当していた。その当時、知的障がい者の入所施設、通所施設への入所は「措置」という方法で行われていたが、入所できる枠は極端に少なく、通所施設(一般的に「作業所」と呼ばれていたところ)への入所が多少ある程度だった。
仕事を通して、障がいのある子どもや若者、その保護者と関わることも多く、障がい団体の取り組みへのサポートも行っていた。支援学級の担任教師にも協力してもらい、一緒にキャンプに出掛けたり、中学生を登山に連れて行ったりもした。
仕事を通して障がいのある子どもの現実、その親の苦労を近くで見ることで、自分自身の子どもの誕生への不安も並行して大きくなっていた。もちろん、妻には全く話さず、そんな思いはずっと自分自身の中だけに押しとどめていたが。
父親としての心配をよそに娘は何事もなく、すんなりと生まれ、すくすくと育っていった。小さい頃から身体を動かすことが好きで、イベント好きで、外に出かけるのが好きな女の子になった。
乳幼児期には中耳炎になって、毎日のように耳鼻科に通院していたが、大して手のかかる子どもではなかった。そして、明るく、前向きで素直な子どもに育ってくれたことが何よりうれしかった。日々の暮らしの中で、一緒にたくさんの思い出を作ることができ、喜びを与えてもらったが、その中でも父親として「娘への想い」を強くした一つのエピソードがある。
それは、公園に落ち葉が敷き詰められて、冬が近づいていた季節だった。週末には、当時3歳くらいの娘を連れて近くの公園によく出かけていた。公園の広い芝生広場には1本の水路があったが、その頃は落ち葉で敷き詰められていて、広場がどこまでもずっと続いているようだった。
ある日の公園で、まだ小さな娘は、水路があると思わずに芝生広場を小走りで駆けていった。そして、落ち葉が積もった水路の上も同じように走っていき、案の定小さな身体は落ち葉と一緒に水の中に落ちていった。予想外の展開と水の冷たさに驚き、彼女はその場で泣きじゃくっていた。
全身ずぶぬれになった娘を抱きかかえて駐車場まで走っていき、急いで自宅まで連れ帰った。娘を抱きかかえながらなぜか「何があっても絶対に娘を守らなくては」と心の中で何度も自分に言い聞かせたことをよく覚えている。娘が愛おしくてたまらなかった。そして、あの時のことはずっと忘れずに今も記憶の中に残っている。
小さかった娘は成長して、大人の女性になった。ずいぶん年月が流れ、娘の結婚式でそんな想いをエピソードとしてスピーチで披露した。あれから、また数年が過ぎ、今では子育てや家事、仕事と娘は忙しい毎日を送っている。きっと結婚式でのスピーチなんかもうすっかり忘れてしまっているのだろうと考えているが。
先日、家で娘の結婚式のことが話題にあがった時、妻にスピーチのことを覚えているか?と尋ねてみた。結果は「そんなこといちいち覚えている訳ないじゃん、隣にいたけど話なんかほとんど聞いてなかったから」と。妻の答えを聞いて後悔と失望が押し寄せたが、やはり聞くべきではなかったというのが正解だったと思う。
そんなことがあったので、娘には今更結婚式でのスピーチを覚えているか?とは聞けていない。娘が覚えていようが、忘れていようが、父親の娘への想いは今もずっと続いているのだから。
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