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  • inoue

不妊治療があっての今


24才で結婚をして、その後に看護学校に進学し、卒業したのは27才でした。就職した既婚の新卒ナースの私に、先輩からは「子どもは仕事を覚えてからだよ」「すぐに妊娠しないよね」なんて言われました。

私自身も30才くらいまでは仕事!と思っていたので笑って受け流していましたが、今だったらパワハラですよね(笑)

特別に怖い先輩という事ではなく、今から25年以上も前のことなので、家庭よりもまず仕事という時代だったのだと思います。


そして、無事?妊娠せずに30才になると、今度は「子ども、もういいんじゃない?」「早くしないと」「下の子に先越されるよ」という言葉。中でも「種?畑?どっちがダメなの?」という言葉にはかなりの衝撃を受け、しばらく立ち直れませんでしたが(これはその時代でもパワハラですよね)有り難いことに同期の仲間の繋がりが強かったので、いつも愚痴を言い合い支え合っていました。そして本当におせっかいな先輩たちでしたが、私のことを気にかけ、姉?親のように心配してくれていたのです。(と思いたい)

先輩たちが心配するように、なかなか妊娠できないことを不安に思うようになり、婦人科受診し検査結果で不妊治療を開始することになりました。


病棟看護師として3交代勤務をしながらの治療は大変でした。

夫も夜勤があったので尚更だったかも知れません。

毎月の勤務スケジュールが出ている中で、急に決まる治療によって突然休みが必要になり、勤務交代をしてもらわなくてはならないのです。何とか、迷惑をかけないように夜勤前や明けで治療をしたりもしていました。

不妊治療もまだまだ社会の認知度が低く理解されにくい時代でしたが、職場は快く治療に協力してくれたので仕事と治療を何とか継続することができました。そして先輩たちも「えらいこっちゃ」とあれこれ心配してくれました(笑)


勤務していたのは小児科、産婦人科病棟だったので、出産の立ち会い、赤ちゃん、子どもの声が日常でした。また、婦人科で入退院を繰り返している患者さん達もいつの間にか私の情報を入手して、心配してくれたり「あなたの子を見るまでは私は死ねないわ」と・・・。

治療がうまくいかず落ち込んだ時には、しんどい思いもしました。

私の不妊治療は期待と不安、そして妊娠の喜びとそれが消えてしまった絶望の繰り返しでした。いつか願いは叶うはずだと何度も何度も頑張って、気がつけば10年近く経っていたのです。


病院の近くに児童養護施設があり、小児科には時々その施設から入院してくる子がいました。付き添いがいなくても自分で受け答えができ、しっかりしている子でした。また、産科で産まれ退院先は乳児院という子もいました。

親が育てられない親が必要な子がいる・・・。

私は妊娠、妊婦、出産に憧れているだけではないだろうか、夫との血のつながりのある子どもは欲しい、でもこのまま子どもが授からなかったら夫婦だけで生きていくのだろうか・・・。

自分がお母さんになって、夫がお父さんになって家族が作りたい。血のつながりに意味があるのだろうか・・・。親として必要としてくれる子がいるなら、その子の親になれるのは子どものいない私たちではないか。


そんな思いがきっかけで夫婦で話し合い、不妊治療を終了し、里親登録をしました。

そして登録1年後に長男、その2年後に二男を特別養子縁組で授かりました。

数年間は不妊治療のことを話すと、辛い記憶として涙が出たりもしましたが、今では不妊治療も私の人生の一部だと、その時があったからこそ今があると思えます。

子育ては色々ありましたし、私自身が器の大きい親ではないので、子ども達が幼い頃は私も親として幼く、お母さんになる事を夢みる甘ちゃんだったと思います。

今も親として、家族として、泣いたり笑ったり、時には喧嘩もしたり、悩んで途方に暮れるなんて事もありますが、子ども達が私たち夫婦を親にしてくれて、親として子ども達の人生に関われていることが幸せだと思っています。


さあ新学期が始まります!どんな1年になることやら 笑

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