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  • mune

仮面を被ってする仕事



私は、母の実家が寺院だったため、子どもの頃から朝晩にお経を読んだり、行事の手伝いをしたりしながら、仏教について関わったり考えたりする機会が多くありました。

高校生になると跡継ぎの問題から僧侶の資格を取ることになりました。

(※急に頭を剃って学校に行ったので、クラス中が騒然となったことは今でも同級生からのイジりのネタになっています。)

そして住職として寺を継げるようにと京都の大学に進学し専門的な勉強をすることになりました。


仏教は、思想や哲学としての面白さはありましたが、私は僧侶としての勤めは好きではありませんでした。

何かを悟ったわけでもなく、特別な力を授かったわけでも無いのに、人前でお経を読むとそこに価値が発生するというのは一体何なんだろうという心地悪さみたいなものを感じていたのです。それに、袈裟を着れば自分らしさを閉じ込めて僧侶らしく振舞わなければならないということに対しても違和感が拭えませんでした。


本来の自分の姿ではなく、僧侶という仮面(袈裟)を被って仕事をすることが、どうしても私には合わず、人前でお経を読むと発作が出るようになりました。

結局、それがきっかけでお寺の仕事からはフェードアウトすることになりましたが、そもそも中途半端な覚悟で寺の勤めを始めたのが間違いだったと思います。


一方、児童養護施設で仕事を始めた当初も、子育てをしてお金をもらうことに対して同じような心地悪さを感じたのですが、そこはすぐに割り切れるようになりました。

なぜなら、そこに自分がいることの価値を感じる事ができたからです。子どもとの関係ではっきりとした手応えを感じることができましたし、「この仕事が好き!!」と迷いなく言える自分がいたからです。

それに、仮面を被らなくても良い本来の自分の姿でいられる仕事ってなんて素敵なんだろうって思いましたね。

これも僧侶としての失敗、挫折があったからこそ、より深く感じることができたんじゃないかと思っています。



その後、結婚してひょんなことから里親になり、思い切って福祉の世界を飛び出したのち、再び児童福祉の世界に戻ってきました。


児童養護施設、乳児院、自立援助ホームと様々な施設での経験を経て、今度は里親支援に携わるようになりました。

いくら自分が里親であるとはいえ、相談員として何ができるのか、そもそもこの仕事は求められているのか、自分には向いていないのでは…等々、苦悩の日々が続くなかで、時に相談員という仮面を被って仕事をするようなこともありました。

もちろん、いつも仮面を被っていたというわけではないですし、「里親子のために本当に意義のある仕事をしたい」という気持ちにブレはありませんでしたが、再び発作が出るようになってしまい仕事を続けることができなくなってしまいました。

結果、多くの人に迷惑をかけることになりました。

課せられた責任を全うすることもできませんでした。



相談員のような仕事は、自分には特に向いていないと今でも強く感じていますが、ほだかの里で良い仲間と出会い、チームで仕事ができるようになったことで、それまで感じていた苦しみのようなものからは解放されたように感じています。


今では、これまでの経験が全て生かされていると感じながら仕事をさせていただいています。

苦しいこともありますが、やりがいを感じながらこの場にいることができています。

苦手なこと、向いてないと思いながら続けてきたことも無駄ではなかったと感じています。


本当に『有り難い』ことです。

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