フライドポテト
- kamiya
- 1 日前
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初めてフライドポテトを食べたのは、1977年8月。場所は、ベルギーアントワープ、ネロとパトラッシュの物語「フランダースの犬」の舞台で有名なアントワープ大聖堂近くの広場だった。
フライドポテトはベルギーが発祥で17世紀から食べられていたという。フライドポテトが日本で食べられるようになったのは1970年代から、ハンバーガーなどと一緒に販売され、若者を中心に広がっていった。ただ、その頃はまだハンバーガーショップも少なくて、フライドポテトを一度も口にしたことがなかった。
アントワープ大聖堂近くの広場は大勢の人であふれていて、おりしもバロックの巨匠「ルーベンス」生誕400年を祝う祭りが開かれていた。そこの屋台で生れてはじめてフライドポテトを食べた。紙に包んだフライドポテトをマヨネーズに付けて食べたその味は、びっくりするくらい美味しいものだったと今でもよく思い出す。
その年の夏、1か月の長期休暇を取り、憧れていたヨーロッパアルプスの山を登るために初めて海外を旅した。最初の地はモンブランの麓の街「シャモニー」、街から見上げる雪をまとった針峰群は予想した以上に迫ってきていて、その迫力に圧倒されそうだった。
天候に恵まれたこともあり、目指していたモンブランを無事に登頂することができ、その後はハイキングなどをしてモンブラン山群を楽しんだ。他にもいくつかバリエーションルートを登る予定だったがモンブランを登った安堵感やクライミング技術不足などから思ったように登れずに滞在期間は終了した。
2か所目はマッターホルンで有名な街「ツェルマット」に移動。だが、到着した翌日から滞在予定期間の3日間はずっと雨に降られ、山は雪に覆われてしまった。目標だったマッターホルン登頂は諦めざるを得なかった。
3か所目はアイガーを望む街「グリンデルワルト」。アイガー、メンヒ、ユングフラウの4000mを超す山々を望む、まさにこれぞスイスといえるような美しい山岳リゾート。
ここでは心配していた天候も回復して、メンヒ、ユングフラウの2座を登るが、雪崩の危険があったアイガー登頂は残念ながら諦めざるを得なかった。
旅は既に日程の3分の2を終了し、残りは1週間ほどになっていた。山仲間と一緒に再びマッターホルン登頂を目指すこともできたが、残された期間を一人でヨーロッパの街を歩いてみたくなった。たまたま現地で知り合った友達が住むアントワープとずっと憧れていたパリに向けて一人列車に乗る。旅の前には全く予定していない行動で、ガイドブックも地図もないぶっつけ本番の旅だったが、なぜか不安より楽しみの方が大きかった。山に登るという緊張感から解放されて、一人で気ままな旅を心から楽しもうと思っていたのかもしれない。
グリンデルワルトから列車に乗り、ジュネーブでいったん下車。1週間後に合流予定のホテルに荷物を預け、身軽になって再び列車に乗る。バーゼルを経由して翌朝アントワープに着く。列車の中で知り合ったアメリカやアフリカ系の若者と片言の英語で話し合ったことも一人旅ならではのいい思い出になっている。
アントワープでは大聖堂を見学して、その大きさ、重厚さやルーベンスの「キリスト降下」などの絵画の迫力に圧倒された。また、運河沿いに残されていたガラス窓の館で初めて見た娼婦の姿にドキドキしながら何とも言えない気持ちになったりもした。夜には居酒屋の中庭でベルギービールを飲んだのも楽しかった思い出だが、友達のアパートで聴いた大聖堂のカリヨン(組み鐘)の音が今でもずっと心の奥底に残っている。
次にアントワープから列車でパリに向かう。友達に紹介してもらったホテルに着くと今日は宿泊できないと言われ、次のホテルを紹介され、2軒目でやっとホテルを確保したが、そこでも宿の人のフランス語が理解できず、手続きに思わぬ時間を要する羽目になった。
パリではルーブル美術館や凱旋門など観光地を巡り、エッフェル塔の広場で現地の若者がやっていたサッカーに入れてもらったりもした。3日間のパリはあっという間に終わってしまった。
ジュネーブで山仲間と合流して、インド経由で日本に戻る。1ヶ月という長旅で疲れはあったものの、ヨーロッパアルプスを登り、異国の街を旅したことで、今までの自分とは違う自分になっていたような気がした。
子育てが一段落した後からはヨーロッパ各地の美術館やいろんな街を歩いて、増々その魅力に惹かれるようになったが、初めての一人旅がそのきっかけになったのは間違いないと今でも思っている。
コロナ禍があり、なかなか海外に出掛けられない時期にはテレビで「世界ふれあい街歩き」を観ながら、石畳の道を歩いた日々に思いを馳せていた。またいつかヨーロッパの街を歩き、いろんな人に出会い、新しい自分探しを期待しながら。
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